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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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補足:「平等ーー社会学的」


 「平等ーー社会学的」で書いたことは、柄谷行人の交換様式論にもかなり重複するものであると、後で気付いた。

柄谷いわく、原始共同体的な場所では(私の理解が間違っていなければいいが)、互酬性を駆動原理とするような交換(経済―倫理的な)が、社会経済の軸にあると言う。

 例えば、親子の間での、親から子への献身的な面倒見は、市場原理に基づく貨幣を介した経済活動とは似ても似つかない。 親は、ある意味でその場での見返り(return)など求めていないのである。

 ただしこれも、柄谷から言わせれば、広い意味での「交換」である、と言う。何か行為をされた者にとっては(この場合は子だが)、負債としての負い目を感じずにはいられないものであり、たとえば「将来、親孝行して恩返しをする」といった形で未来に投射するうえで交換を成り立たせるのである。

 この、互酬性の原理、いわば見返りを(ほとんど)求めず、一方から一方へ「与える」というのは、前回でみたアイドル=神学的な、絶対愛と近い。そのとき、真の平等が実現しているのである。ぎゃくにいえば、真の平等が実現するためには、このアイドル=神学的、見返りを求めない「与え」が必要条件だということだ。

 近代の人間は神をじしんの領域から追い出すことによって、先験的に自らがひれ伏すものを隠ぺいした。まぁ、それはそれで人が人の上に立つ、という事態を産んだのではあるが。

 アイドルという現場では、実にオタクは雑多な、多様性ある人間集団として活動する。知識人もいれば、生活保護をともにするような人もいる。ただしそこに上下関係はない。上下関係が在るのは、ある意味お金を投資=消費する先のアイドルとの間柄においてだけである。彼女たちにはひれ伏す――ここでのこの言葉はじつに多義的な意味合いを含んでいるーーことはあっても、オタクがオタクの上にたつようなことはあってはならない。

 とりとめのない記述になったが、補足は以上である。よって本記事も前回記事も、アイドルのことを扱っているが、優れて学的な記述であるうえにカテゴリを「哲学」とした。

misty

 
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