今年の2月に発売された大澤真幸『自由という牢獄』(岩波書店)を読み終えた。「自由」という価値は私たちアイドルという現象を思考する人にとってもかなり重要なので、かんたんに議論したいと思う。
端的にいえば、『自由への牢獄』では「自由がかなり達成した現在はむしろ逆説的に不自由を被っている」というテーゼを、かなり分かりやすく析出することに成功しているとは思う。
自由という概念そのもの、つまり内在的に、自由を困難たらしめる要因がある、ということを分からせてくれる。
それはいいのだが、「自由」という言葉ないし概念は本当に古来から人文・社会、そして自然科学の領域、科学以前の知的言説においてもずっと繰り返し論じられてきた。さまざまに「自由」の内容や形があるのである。
よって大澤は、たとえば諸説あったり、大澤自身の議論の流れによって区分けされてくる自由の価値の諸内容を、交通整理すべきであった。彼はたった一つの自由を論じているわけではないのだから(本人にそのつもりがあっても、だ)、内容が違う自由は、「自由A」「自由B」と分けて書かないと私の頭でさえ混乱した。
第一章と第二章は比較的よかった。しかし第三章と第四章は問題、というかかなり不満だし疑問ばかり残る。
第三章について、結局彼が呼ぶところの「裏返しの第三者の審級」というのが(時間的な)「未来」ではないのか、という議論について、あまりにも稚拙すぎる。「未来」という言葉自体もまたとても抽象的だ。抽象的すぎる。
簡単に、「これからの未来に人民の自由の達成がかかっている」という酷い理解になりかねない。
「未来」という言葉をそこまで使うのであれば、たとえば柄谷行人の『世界史の構造』以降のような、独特の「未来論」を書かなければならない。抽象的な言葉に頼ってはいけない。
あと、第四章ではトマ・ピケティ氏の『21世紀の資本』をあまりに簡単に解釈しすぎているのではないか、と個人的には思う。そんな内容にこんなベストセラーになるのだろうかと正直不思議である。
さて、内容について。
やはり、「他者」というのは自己の「内に」思わぬ形で存在し、衝突することになる――このテーゼの奥深さである。
結局、不自由や悪といった存在も、価値も、自己、あるいは「この世界の」内に内在的に潜んでいるのだ。反転的に。
このことはアイドルを語るうえでも十分に参考になるだろう。
ひとまず、このあたりで乱暴な筆を置く。 みすてぃ
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