たとえばフランス国家の三大理念、自由、平等、友愛のうち、自由についてはもっぱら語られるほど語られるが、平等や友愛について自由ほど大真面目に語られたことはない。むしろ、ジョン・ロールズの『正義論』をはじめとする政治哲学の「正義」への注視や、公平などはテーマになるが、友愛、ことに平等は最近の議論の俎上にすらのせられない。
平等の定番といえば、憲法の14条「法の下の平等」である。この、「法の下の」という言説こそ、多様であり得る人々をひとつのネーションにしばりあげ、実質的な差異をもたらす包摂的排除の作用制度に他ならない。
実質的平等を確保するための結果の平等を……という文言はあるが、おそらくこれは平等を真剣に思考するためには何か下手くそなのである。国家ー政治学からはかけ離れた所で今一度「平等」を思考しなければならない。
しかし、ヒントはある。つまり、平等という概念が主張されはじめるのは、どこか。国家が人民を縛り上げるときである。つまりこのとき、国家は人民に対して、機会を振り分ける(たとえば所得の分配など)機能をもっている。このとき、あたえられる/あたえられない という軸で、平等が語られているのだ。
この、あたえられる/あたえられない の軸は、現代において、国家以外でどこで見つかるか。意外にたくさんの場面が見つかるのだが、例えば現代のアイドルの舞台においてどうなのだろうか。
アイドルは、ファン(オタクと冷笑めいた名前を使うのは控える)に愛をばらまく。そう、これはまぎれもない真実である。 ファンはステージ観覧や物販代といってはお金を払い、その対価として何を得たいかというと、アイドルからのレスであったり、公演中のレス、私信、物販、サイン、認知、チェキ、手つなぎ、ウインク……等である。つまるところ、アイドルからの「愛」、応答replyとしての、愛である。
アイドルにハマるファンからしてみれば、問題はこのアイドルからの愛の分配という問題こそが、最大で唯一の悩みどころである。 推しメンは、いつもあの人ばっかりにいい対応をする、自分には塩対応ばかり、寂しいから、他のアイドルに推し変する……。ファンがいつも臨機応変に振る舞えればそれはそれでいいのだが、おそらく問題はアイドルの側にもある。
愛の振り分けが非常に下手くそなアイドルも現にいる。腐りきるほどいる。筆者は、それはアイドルの条件をなすものとして、おそらくもっともっと上にあがっていくために、愛の上手い振り分けをすることが必要条件になってくると考える。
どうしてあいつばかり。どうして俺には。
様々な場面でこのファンの内心の、いや現の声を聞く。おそらく私たちは「真の平等」が何か理解していないし、そして「真の平等」は現れてもいないのだ。
そんな「真の平等」の参考になるのが、筆者は篠田麻里子だと思う。
彼女は、自分がAKB48を卒業するにあたって、こう述べた。
「昔からずっと応援してくれたファンも、つい最近私の事を知ってくれて応援してくれるようになったファンも、私からしたら、みな同じとても大切な宝のような存在。みなさんに対して、ありがとうを今一度言いたいです。」
貴方だけが特別でもない、かといって君が唯一なわけではない、どの存在も等しく高く輝いた存在―――。篠田麻里子の「愛」は、人々をそのような価値的存在にいたらしめるほどに、完成されている。そうした愛が存在するとき、真の平等が実現するのではないか。
ここで大切なことは次の二つである。
(一) 完全な愛が存在するとき、その愛は全ての存在物を等しく最高の輝きたらしめる。
(二) 愛は一方から一方に対して与えられる――それも絶対的な仕方で。このとき、インタラクティヴ性といったものは微塵も存在していない。
お金で愛は買えない。なぜなら真の愛は、双方向的なものではありえず、ただ真理に気付いた者だけが、その人が与える事の出来るものだからである。
話がますます宗教論めいて友愛の話にも近づいたところで、論を終わりたい。
みすてぃ
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