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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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ミュージックシーン、新しい世代への期待感

あけましておめでとうございます。

この記事では、主にロックミュージックから見た音楽シーンの状況を見ますが、例えば芸能界とか、大物の訃報、世代間の格差などから見ても、「新しい」波をすごく感じます。そしてそれに筆者は希望というか、勝手な期待もするのもおこがましいんですが、暗いニュースが多い日本にいても、明るい面があるなぁと元気になった気持ちになります。それを、具体的に紹介してみたいと思います。

■相対性理論とパスピエ

 相対性理論というアーティストを知っている方は多いと思います。相対性理論は2006年に結成されたポップユニットバンドで、2008年にリマスタ発売された『シフォン主義』というクセのあるタイトルのミニアルバムが爆発的に広まっていきました。2ndを経て、2010年には一度聴いたら耳から離れなくなる「ミス・パラレルワールド」を含む『シンクロシニティーン』を発表し、その地位を確かなものとしました。

LOVEずっきゅん(『シフォン主義』収録)


ミス・パラレルワールド(『シンクロシニティーン』収録)


 この2曲だけを聴いても分かるのですが、vocalのやくしまるえつこが醸し出すすごく虚脱感のある特徴のある声に、柔らかめのバンドサウンドが乗っているのが、相対性理論の音楽の特徴です。そして、何よりポップですね。

 そんな彼らは現在に至るまでもCDを出したり企画ライヴをやったりと今でも活動は衰えません。

 そして、もうひとつとりあげたいのが「パスピエ」というバンドです。こちらは2009年に5人で結成されたポップ・ユニット。2011年にインディーズレーベルから出された『わたし開花したわ』や2014年のメジャー2ndアルバム『幕の内IZM』がヒットし、若手アーティストの注目株として知られています。

ハイパーリアリスト(パスピエ)


 パスピエは成田ハネダというキーボーディストが中心となって、紅一点の大胡田なつきの高く甘い歌声がきれいに乗っかる、これまたポップ・ユニットです。つまり、違いはあるにせよ相対性理論とパスピエは共通点があります。音楽面で違う面がしっかりあるのですが、それは本記事にあまり関係ないので、記述は省いておきます。

 では具体的には何が彼らを分かつメルクマールになるか?

 相対性理論は少なくともデビューミニアルバム『シフォン主義』がそれこそ「資本主義革命」のようにそれまでの国内のミュージックシーンに彗星のごとく現れる新しいロックミュージックでした。そしてそれは00年代の後半に登場したということになります。

一方、パスピエは筆者が「2010年代前半組」と呼ばれるアーティストたちと共に、CD屋やテレビチャンネルなどで広がっていきました。「2010年代前半組」というのは全くの独称ですが、2010年代、ONE OK ROCK、THE BOWDIES、back number、ゲスの極み乙女。、SHISHAMO、ヒトリエ、そしてパスピエといったすごく若い人たちが一気にロックの世界に参入し、若い世代の音楽の聴き手に受け入れられていきました。

 まぁ、ゲスの極み乙女。は現在は問題を起こして活動休止ですが…。笑

■寂しかった00年代後半と、2010年代前半組

 さて、述べたいのはここからです。ここからは筆者の主観が多少混じりますので、客観的な記述を前半にしておきました。

 2010年に突入したとたん、TOWER RECORDSなどで、知らない若そうなバンドが一気に増えてきたなぁ、と僕は感じました。というのは、00年代の後半(2005~2009)は、音楽的に少し寂しいシーンだったのです。
 これはよく分からない。今や世界中の文化の発信地点となっているYoutubeやニコニコ動画などの動画サイトが台頭し、不況も手伝って、音楽を聴くということのスタイルが変わったせいかもしれません。特にそれが顕著に現れているのが海外アーティストの輸入面だと思いました。00年代で一番売れた若手のロックバンドは間違いなくArctic Monkeysだと思うのですが、アクモンが出てきたあと、後が続かない。アクモンほどわくわくさせてくれるような音楽を発信しているアーティストが見当たらない。国内の音楽も何か閉塞しているようで、音楽的にはちょっと危ない時代だったのかなと思います。

 (余談ですが、僕は文化や世代論をみるときに、5年間という区切りを重要視します。5年で区切るととても特徴的なことが幾つも浮かび上がるので……)

 だから、2010年代以降に注目されたアーティストの多さにはびっくりしました。相変わらず海外のバンド状況はよく分からなかったけど、特にゲスの極み乙女。やワンオク、アレクサンダースらの取り上げられ方がすごいなぁと思っていました。

 僕は89年生れで、90年代の音楽をけっこう愛好しているので(笑)、2010年代にゲス極みやSHISHAMOなどのアーティストが紹介されても、なかなか手につきませんでした。暇もないし……それにYoutubeの関連検索でひっかかることが多かったです。そこにはレンタル屋に行ってうーんと商品を眺めて選んで帰って歌詞カードを開きながらCDを聴いて「発見する」という手間がかかってないので、何か思いが足りないのです。

 しかし、最近はゲス極みやパスピエなどもだんだんと聴き始めて、すごくいいじゃん!て思ったんです。

 さきほど、相対性理論とパスピエの比較をとりあげましたが、相対性理論がバンドの志向としてどちらかというとゆったりとしてだるい感じの音楽で、そこに技巧性はあまり絡んでいないのに対し、パスピエは非常に音楽的にレヴェルが高く、キーボードのセンスやバンドとしての一体感や、個々の演奏者の技術がすごく高いんです。
 そしてそれは2010年代前半組の全てに言えることだと思う。

最近のバンドは、どれをとっても演奏が格段に巧い人たちが多いんです。これは、音楽が昔に比べてずっと「演奏しやすくなった」ことがだいぶ大きい。エレキギターなどは安くなり、さらに「歌ってみた」「弾いてみた」投稿などの影響で、音楽が世界から世界へ伝わるのが尋常でないくらい早くなった。練習もはかどるし、よりよい音楽を作るための素地ができあがったと思うんです。

 だから、2010年代前半組には、期待しちゃいます。センスが多いバンドが多いし、技術もある。そこに、もっと大きな経験値だとか、それが加われば、もっともっとロックミュージックは「進化」するのかなと思います。僕は、一時期(00年代後半期)、ロックが元気ないな~とけっこう本気で寂しがっていたので、嬉しい状況になったと思います。パスピエやSHISHAMOなどはメディアにも好意的に取り上げられることが多いと思いますが、それだからというのではなくて、本当にいいアーティストになっていく人たちが多いです。

 ロックの「進化」を、これから目の当たりにしていきたいです。





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深川麻衣 写真論

5月にBABYMETALの記事を書いてからずっと更新していなかった。申し訳なく思う。

深川麻衣 写真論
 

写真集「ずっと、そばにいたい」(2016年6月9日、幻冬舎)

乃木坂46の最年長メンバーであった深川麻衣は、グループ13枚目のシングルとなる「ハルジオンが咲く頃」のセンターを務めた後にグループを卒業した。その後どうなるかと一部で危ぶまれていたものの、無事に芸能事務所に所属することが決まり、今後は女優業などを視野に入れて活動する予定だという。
 初のソロ写真集でもあった「ずっと、そばにいたい」の発売日が6月9日で、彼女の卒業コンサートはそれ以降だっと思われるが、どちらにしても卒業時期に間に合わせた形のようだ。さて、改めて問おう。深川麻衣は、どのような存在であったか。乃木坂メンバーの一員として。聖母。同じ名前を持つ白石ほどには強烈な鮮やかさがあるわけでは決してなく、実に柔らかな、穏やかな美しさとでもいうべき美点ーーそれは彼女が雰囲気として身にまとっているものでもある。強烈な個性を発揮する生田絵梨花や松村沙友理のように自己主張をするわけではない。優しい、優しさの象徴としての聖母ーーグループの年長の者として、さらに白石とも橋本とも少し違うアプローチで、後援としてグループを暖かいオーラで包むような、そんな力を彼女は知れずと発揮していたに違いない。

 「ずっと、そばにいたい」はそういう意味でも個人としての深川麻衣に焦点を絞った、貴重な写真集である。写真家の細居幸次郎の実に美しい色彩配置に思わず見惚れてしまう。たとえば透き通るような青の海水に足をつける深川は真っ赤なドレスを着ており、海水から浮き出た岩には緑々しい苔が生えている。青、赤、緑という色のシンプルさは彼女と風景をいっそう映えるシンプルさへと引き出す。写真集の表紙の正面顔のアップなど、怖いまでに美しく、そして可愛い。妖艶な一枚もある。「ずっと、そばにいたい」では様々な色と場所で構成された空間の中で、彼女の率直で人間らしい表情が巧みに撮られている。

 深川さんは、乃木坂の中でも相当な優等生であった。優等生のまま、今後の芸能活動に邁進してもいいし、なにごとかにつけドラマーー喜劇か、それとも呼ばざる悲劇かーーを欲望する現代社会に引きずられて「おもしろい」人生を辿るかもしれない。しかしどちらにせよ、それらをしっかり生き抜くための力と経験を、五年に渡る乃木坂46の活動の中ですでに彼女は手にしているのである。
 ハルジオンが咲く頃、彼女の微笑みもまた増す頃ーー。  misty


BABYMETAL「METAL RESISTANCE」感想



 2016年4月に満を持してリリースされたBABYMETALの2ndアルバム「METAL RESISTANCE」は、まず興行的に大成功を収めたと言えるだろう。日本発出の海外輸出という長らくの夢は、このBABYMETALが先陣を切ることになった。全英、全米、全豪などで売れるというのは、僕が当時熱心に記録を確認していたRadioheadの(僕なりの)再来のようなものである。もちろん音楽性は全然違う。「METAL RESISTANCE」は輝かしい1stよりもどちらかというと保守的で、王道なサウンドが多い。それだけに、ライブの定番となっていきそうな曲ばかりでもある。

 今回の曲の中で一番ハマったのは「KARATE」。PVが出たときから、その色彩構成に目を奪われた。1stのBABYMETALはメギツネや紅などで、赤と黒という対比を基調としていたように思われるが、KARATEのPVの色彩はもっとダークで、暗闇に塗られている。その中で、2番サビが終わったあとの、闘いの合間の静けさのような密度は、映像としても面白かった。

 1曲目の「Road Of Resistance」はアルバムコンセプトの核となる曲だが、この曲を改めてアルバムを通して聞くと、思わず泣きそうになる。この曲のパワーが今回のアルバムの全てであると言えよう。

目玉の曲は、4曲目の「ヤバッ!」であった。歌の「違う 違う」と連呼するところは狂気じみているし、迫るような圧迫感がある。ライヴでむちゃくちゃになりたいと思った(笑)

 今回は、後半の曲は失速気味かと思う。印象も薄い気がする。ラストのTHE ONEはPVが素晴らしいが、あとはSis.Angerなどをのぞくと曲名が思い浮かばない。

 とは言え、Road Of Resistanceで彼女たちとともに拳をふりあげ、大合唱をする、しかもイギリスの聖地、ウェンブリーのような処で…… 彼女たちは本当に歴史を作ってしまった。

misty

欅坂、サイレントマジョリティ




 欅坂46の「サイレントマジョリティ」にどハマりしてしまった。また、MVも素晴らしいと思う。

 MVに関しては、現在改装中の渋谷駅も使用しているようだが、照明がすごい。イメージカラーの映える緑色の清楚な制服に、青や黄色などの信号、紫などの緊張感とハリのある色が彼女たちをコマ切れに映していく。
 ダンスもいいと思う。奇抜で、とても印象のある動きだ。

 僕は、これまで欅坂にまったくといっていいほど注目していなかったが、YoutubeにサイレントマジョリティのMVが現れてから、ただのリピーターになった(笑) 
歌詞がものすごくいいのだ。それは姉グループの乃木坂46の「制服のマネキン」との対比を明らかにおもわせる(MVの作りもそうだが)。
 サイレントマジョリティという政治学の用語、特に2番からの「どこかの国の大統領が~」のくだりなど、社会に対する意識は、歌い手である欅坂46が決してそれを意識していなくても、歌のメッセージとして強く規定され、若者や働いている人たちに届けられる。

 サビの構成はすさまじい。平手友梨奈が真ん中の道の後ろからまくしたてるように歌って前へ進み、彼女たちは切なる顔で「僕らは何のために生まれたのか?」と歌う。

君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れていても始まらない

 多様性のベクトルと、近年日本の政治面などに見られる一極化との狂乱的な争乱のなかで、彼女たちはマイノリティたちの存在に光を投げかけようとする。サイレントマジョリティは声をあげない大多数の者たちを認めるのではなく、たとえ自分たちが少数のものであると自覚しても声を高らかにあげていこうと呼びかけているのだ。

 若干14歳、中学生でセンターを射止めた平手友梨奈さんには魅了されてしまった。彼女が歌う「山野手線」も非常によい。

 デビューシングルで見事に快挙をかざった彼女たちは、どこまで進むのだろうか。とても楽しみだ。

(みすてぃ)


性は生政治である

性は生政治である


 


 堀江有里の『レズビアン・アイデンティティーズ』(2015、洛北出版)を読んでいると、「個人的な事柄は政治的なことがらである」というフェミニズムの第一スローガンを想起せずにはいられない。個人的な事柄と政治的な事柄、あるいは性と政治の関係を語り、暴いていくのがフェミニズムであり、ジェンダー学であり、クィア理論である。そしてそこには堀江がタイトルとして選んだレズビアン・「アイデンティティ」、自己に関する同一性、すなわち主体の問題が切って切り離せない。性・主体・政治はここにおいて同一の広大な平面に連なるのである。


 


 あるいは、フーコーの後期理論を吟味したラディカル・フェミニストのジュディス・バトラーの議論を思い出してもよい。彼女の最も重要な書物は『自己自身を説明すること』である。英語のタイトルではGiving an account of myself. とある。自己を表明するときに、性的自認・認識はしばしば切り離せない事柄であり、そしてそれは深く私たちの「生」を規定している。そのとき、この性・主体そしてそれらの動態を連ねる平面の名は、〈生政治〉であることが分かるだろう。〈性の政治〉は、とりもなおさず「生政治」なのである。


 


 ミシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランス講義録の第八巻において、『生政治の誕生』という風に一連の講義に名前をつけた。その問題意識は、一昨年の『社会は防衛しなければならない』、そして一昨年の『安全・領土・人口』から続いている。そして『安全・領土・人口』において、フランスの農作物の政策に関して、ケネーをはじめとする理論家を登場させつつ、「人口 population としての人民」という概念が登場したことをフーコーは明らかにする。つまり、名前を持たぬ「数」としての人民が、農作物の政策を論じるにあたり、議論の俎上に乗りはじめたというわけだ。この名前を欠いた「人口」は、翌年拡大されることになる〈生政治〉という考えの最も重要な鍵概念であった。そしてこの人口と、圧倒的に抽象的で、私たち個々人の具体的な生を粗くする「性」という概念には、共通点がある。


 


 「性」は、近代以降は、圧倒的にマス・メディアとの関係でその舞台を演じることになる。「広告」や映画、ポスター、小説、文学作品などはその典型である。性はメディア表象との関連なしに語ることはできない。というより、「性」は、性への「認識」の在り様なのである。反対にいえば、性は実在するのかもしれないが、その実在性がどうでも良いと思えるような時代も確かにあったのである。しかし、メディアが登場して以降、特に恋愛というイデオロギーを通じて、性別は意識され、自ら意識するような対象になった。その対象は私たちでもある。そして、家父長制に見られるような男―女の性別二元論は、明らかに時代的なものでしかないのである。


 


 「性」は私たちにもっとも身近なものであり、またもっとも遠いものでもある。もっとも身近なのは、「性」は私たちの身体に関することだからでもあり、もっとも遠いのは、それが認識作用であることからきている。ミシェル・フーコーは最後の書物『性の歴史』シリーズを、イギリス王朝の性生活の記述から始めたが、ジュディス・バトラーやジョルジョ・アガンベンを通して、また戻ってくるべきところも、性の政治、すなわち〈生政治〉の探究なのである。


 



みすてぃ