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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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深川麻衣 写真論

5月にBABYMETALの記事を書いてからずっと更新していなかった。申し訳なく思う。

深川麻衣 写真論
 

写真集「ずっと、そばにいたい」(2016年6月9日、幻冬舎)

乃木坂46の最年長メンバーであった深川麻衣は、グループ13枚目のシングルとなる「ハルジオンが咲く頃」のセンターを務めた後にグループを卒業した。その後どうなるかと一部で危ぶまれていたものの、無事に芸能事務所に所属することが決まり、今後は女優業などを視野に入れて活動する予定だという。
 初のソロ写真集でもあった「ずっと、そばにいたい」の発売日が6月9日で、彼女の卒業コンサートはそれ以降だっと思われるが、どちらにしても卒業時期に間に合わせた形のようだ。さて、改めて問おう。深川麻衣は、どのような存在であったか。乃木坂メンバーの一員として。聖母。同じ名前を持つ白石ほどには強烈な鮮やかさがあるわけでは決してなく、実に柔らかな、穏やかな美しさとでもいうべき美点ーーそれは彼女が雰囲気として身にまとっているものでもある。強烈な個性を発揮する生田絵梨花や松村沙友理のように自己主張をするわけではない。優しい、優しさの象徴としての聖母ーーグループの年長の者として、さらに白石とも橋本とも少し違うアプローチで、後援としてグループを暖かいオーラで包むような、そんな力を彼女は知れずと発揮していたに違いない。

 「ずっと、そばにいたい」はそういう意味でも個人としての深川麻衣に焦点を絞った、貴重な写真集である。写真家の細居幸次郎の実に美しい色彩配置に思わず見惚れてしまう。たとえば透き通るような青の海水に足をつける深川は真っ赤なドレスを着ており、海水から浮き出た岩には緑々しい苔が生えている。青、赤、緑という色のシンプルさは彼女と風景をいっそう映えるシンプルさへと引き出す。写真集の表紙の正面顔のアップなど、怖いまでに美しく、そして可愛い。妖艶な一枚もある。「ずっと、そばにいたい」では様々な色と場所で構成された空間の中で、彼女の率直で人間らしい表情が巧みに撮られている。

 深川さんは、乃木坂の中でも相当な優等生であった。優等生のまま、今後の芸能活動に邁進してもいいし、なにごとかにつけドラマーー喜劇か、それとも呼ばざる悲劇かーーを欲望する現代社会に引きずられて「おもしろい」人生を辿るかもしれない。しかしどちらにせよ、それらをしっかり生き抜くための力と経験を、五年に渡る乃木坂46の活動の中ですでに彼女は手にしているのである。
 ハルジオンが咲く頃、彼女の微笑みもまた増す頃ーー。  misty


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BABYMETAL「METAL RESISTANCE」感想



 2016年4月に満を持してリリースされたBABYMETALの2ndアルバム「METAL RESISTANCE」は、まず興行的に大成功を収めたと言えるだろう。日本発出の海外輸出という長らくの夢は、このBABYMETALが先陣を切ることになった。全英、全米、全豪などで売れるというのは、僕が当時熱心に記録を確認していたRadioheadの(僕なりの)再来のようなものである。もちろん音楽性は全然違う。「METAL RESISTANCE」は輝かしい1stよりもどちらかというと保守的で、王道なサウンドが多い。それだけに、ライブの定番となっていきそうな曲ばかりでもある。

 今回の曲の中で一番ハマったのは「KARATE」。PVが出たときから、その色彩構成に目を奪われた。1stのBABYMETALはメギツネや紅などで、赤と黒という対比を基調としていたように思われるが、KARATEのPVの色彩はもっとダークで、暗闇に塗られている。その中で、2番サビが終わったあとの、闘いの合間の静けさのような密度は、映像としても面白かった。

 1曲目の「Road Of Resistance」はアルバムコンセプトの核となる曲だが、この曲を改めてアルバムを通して聞くと、思わず泣きそうになる。この曲のパワーが今回のアルバムの全てであると言えよう。

目玉の曲は、4曲目の「ヤバッ!」であった。歌の「違う 違う」と連呼するところは狂気じみているし、迫るような圧迫感がある。ライヴでむちゃくちゃになりたいと思った(笑)

 今回は、後半の曲は失速気味かと思う。印象も薄い気がする。ラストのTHE ONEはPVが素晴らしいが、あとはSis.Angerなどをのぞくと曲名が思い浮かばない。

 とは言え、Road Of Resistanceで彼女たちとともに拳をふりあげ、大合唱をする、しかもイギリスの聖地、ウェンブリーのような処で…… 彼女たちは本当に歴史を作ってしまった。

misty

欅坂、サイレントマジョリティ




 欅坂46の「サイレントマジョリティ」にどハマりしてしまった。また、MVも素晴らしいと思う。

 MVに関しては、現在改装中の渋谷駅も使用しているようだが、照明がすごい。イメージカラーの映える緑色の清楚な制服に、青や黄色などの信号、紫などの緊張感とハリのある色が彼女たちをコマ切れに映していく。
 ダンスもいいと思う。奇抜で、とても印象のある動きだ。

 僕は、これまで欅坂にまったくといっていいほど注目していなかったが、YoutubeにサイレントマジョリティのMVが現れてから、ただのリピーターになった(笑) 
歌詞がものすごくいいのだ。それは姉グループの乃木坂46の「制服のマネキン」との対比を明らかにおもわせる(MVの作りもそうだが)。
 サイレントマジョリティという政治学の用語、特に2番からの「どこかの国の大統領が~」のくだりなど、社会に対する意識は、歌い手である欅坂46が決してそれを意識していなくても、歌のメッセージとして強く規定され、若者や働いている人たちに届けられる。

 サビの構成はすさまじい。平手友梨奈が真ん中の道の後ろからまくしたてるように歌って前へ進み、彼女たちは切なる顔で「僕らは何のために生まれたのか?」と歌う。

君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れていても始まらない

 多様性のベクトルと、近年日本の政治面などに見られる一極化との狂乱的な争乱のなかで、彼女たちはマイノリティたちの存在に光を投げかけようとする。サイレントマジョリティは声をあげない大多数の者たちを認めるのではなく、たとえ自分たちが少数のものであると自覚しても声を高らかにあげていこうと呼びかけているのだ。

 若干14歳、中学生でセンターを射止めた平手友梨奈さんには魅了されてしまった。彼女が歌う「山野手線」も非常によい。

 デビューシングルで見事に快挙をかざった彼女たちは、どこまで進むのだろうか。とても楽しみだ。

(みすてぃ)


みすてられたものたち――あヴぁんだんどと僕の思い出


 あヴぁんだんどというアイドルグループは、確か去年(2014年)の初夏ごろに産声を上げた。当時、日本の批評・思想界ではわりと有名な濱野智史さんが手がけるアイドル、PIPというのが巷では話題になりつつあった。一人の批評家が彼の独自のアイドル観念、理念=哲学をもとに、AKB48に対抗するアイドルグループを生産しようとしていたからであった。
 ふと、彼の手による第二弾のアイドルグループが出来たとTwitterかなにかで見かけた。なにやら、星なゆたという人が、「今日濱野さんからカフカの「掟の手前で」を教わった~」などと呟いているではないか! 僕は咄嗟に彼女にリプライを送ったら、それが数分後に返ってきた! 星さんの妙な人懐っこさ! びっくりしてしまった。そうだこの頃は、メンバーそれぞれがほとんど全ての人にリプを送って、これアイドルなのか? と思ってしまうくらい楽しい時期だった。
 一ヶ月くらいすると、何やら彼女達は困っていた。Twitterでなゆたと会話をしていると、どうも当のプロデューサー濱野智史に飽きられたっぽいのである。「飽きられた……?」 僕は不思議に思った。しかし、確実にメンバーたちが濱野智史の名前を出す機会は減り、どうやら彼女たちはまたく0となった地点からアイドル活動をたちあげていくみたいだった。

 さて現在、あヴぁんだんどは小さいながらも東京で必死こいて活動している。実はこんなに思い入れのあるグループなのに、僕は一度も彼女たちに会ってないのだ(早く会いたい)。全国雑誌のBUBUKAにもロングインタビューが載ったし、CDは2枚リリースしているし、さぁこれから!もっともっと!というところだ。2015年は、アイドルグループとしていい地点までたどりつけた、しかしこれからも油断がならない年であったのだろう。彼女たちはいつも本気だ。

 誰が一番好きかと問われたら、かなり返答に困ってしまう。東雲さんの奇妙奇天烈っぷりも面白いし、うさべには才能が爆発しているし、なつきちゃんは僕は一番かわいがっている()し、星なゆたはミスidのセミファイナルまで進出してあヴぁんだんどの中でも他のメンバーよりちょっとだけ前に行っている。ふかしぎくんとしてDJの活動もしているようだ。

 また、あヴぁんだんどを語るには欠かせない、今はなきメンバーもいた。僕にとって何より思い入れが在るのはあんずちゃんだ。あんずちゃんは五人になったときも背の高さからか可愛さからかとにかくよく目立ち、「あヴぁんだんどの華」のポジションにいた。

あヴぁんだんどの周りのファン、関係者、対バンするアイドルグループ、あヴぁんだんどに関わっていくすべての人たちがおなじひとつの幸福に包まれるような、そんな存在になりつつある。あヴぁんだんどは確かに個人個人の才能はまだ飛びぬけたものではないかもしれないが、周りがいつも支えてくれる。周りに支えられて、愛されて、彼女たちは愛を世界に送り届ける。

あヴぁんだんどはこの後の日本のアイドル界に大きな衝撃をあたえることができるだろうか。BiSが解散したその日に産声をあげたこのあヴぁんだんどは。

まだ駆け出したばかりだ。ジェットコースターの岐路は長い。   misty 

アイドル哲学序説 草稿(1)

 アイドル哲学序説



はじめに オタク的主体?


 アイドルの現場――専用劇場からドームコンサート、握手会といったイベントまで――ではいったい何が起こっているか。それを本稿は現象学的に読み解こうとするものである。その際、二つの主体が問題となってくる。一つはアイドルの主体(アイドル的主体)、もう一つはオタク・ファンの主体である。本稿での議論の半分をアイドル的主体にあてるものとして、ここでは簡単に後者のオタク的主体について触れておく。


 そもそも、オタク的主体という言葉が成り立つのか。すなわち、オタクに主体性はあり得るのか。彼らは極めて欲望に従って、各々の利害関心の及ぶところだけで動いているように思われる。好きなメンバー、好きなグループしか応援しないし、お金を落とさない。逆に、大好きなメンバーには握手会などで何回も回るという「ループ」現象が広くアイドル現場において見られることが、オタクの動物的欲望(※1) といったものを裏付けている。


 だいたい、近年のアイドルは、「恋愛禁止」が掲げられている(AKB48が象徴的であった)。この恋愛禁止制度とでもいうものは、アイドルのみならずファンたちに大きく影響する。アイドルの個々のメンバーとファンが「付き合ってはならない」という当たり前のことを殊更大きく「再表象」することで、ファン=オタクたちは精神分析用語でいうところの「去勢」をうけるかのように見える。ここに、オタクたちのアイドル現場での様態が分極化するのである。ひとつは、去勢されたことで、生々しい性の空間を離脱し「マイルド」な恋とでもいった状態を生きること。オタクとアイドルの関係は生々しい性関係を抜きにした、純粋――?――な愛の空間を構成する。しかしもう一つには、禁止されたことでかえって抑圧された欲動を回帰させ、倍以上に噴出せしめるといったオタクからの視線――アイドルからの視線も理論上はある――が発生するのである。オタクはここに二重の視線を絡ませることになる。オタクはアイドル(メンバー)を脱性的なものして見ながら、かつ倍加された性的欲望のまなざしでも見つめるのである。


 そもそも、現象としてのアイドル――それはアイドル、ファン、そして運営といったアクターから成り立つ――は極めて性的なことがらである。オタクが脱性的なものとしてしかアイドルを見ない、ということは以上の理論からしてもあり得ない。しかし、私たちは後に見るように、アイドルたちの主体化の進行を目の当たりにすることで、かえってオタクたちの(主体的)変化をも観察することになる。

[1] 「欲望」や「欲求」という言葉の使い方については、東浩紀の『動物化するポストモダン』最終章が参考になる。

みすてぃ