哲学者アドルノはナチスによる虐殺以後の文化を論じるなかで、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」と言った。
その言葉に倣い、「震災以後、アイドルであることは野蛮である。」「岩手ノコギリ事件以後、アイドルであることは残酷である。」と言えるのではないか。震災、ノコギリ事件は共に間違いなく、「アイドルであること」を問う事件だった。
震災とノコギリ事件に最も応接し得たのが秋元康/AKB48であるというのが、ここでの仮説である。
まずは震災について。当時、多くのミュージシャンが「団結」「癒し」「励まし」といったありきたりな作品しか作れなかったなかで、極めて即物的である「風は吹いている」が震災への唯一の真摯な応答であったことは間違いないだろう。そして「風は吹いている」は極めて野蛮な作品であった。
秋元康の震災への応答は「風は吹いている」で終わらなかった。震災以後のアイドルについて考えるときに、より重要な「掌が語ること」がリリースされた。
言うまでもなく、この曲では「掌が語る」=「握手会」ということが表現されている。震災後に詩を流通させる野蛮さを回避するものとしての握手会、秋元康の嗅覚の凄さが見事に現れている。
秋元康は「掌が語ること」で震災に見事に応接した。
それでは「掌が語ること」=「握手会」を暴力的に拒否した「岩手ノコギリ事件」に秋元康はいかに応接したのか、あるいは応接できなかったのか。
そこに「希望的リフレイン」がリリースされた。(続く)
あいまい
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