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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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震災からノコギリ事件へ(前編)

哲学者アドルノはナチスによる虐殺以後の文化を論じるなかで、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」と言った。

その言葉に倣い、「震災以後、アイドルであることは野蛮である。」「岩手ノコギリ事件以後、アイドルであることは残酷である。」と言えるのではないか。震災、ノコギリ事件は共に間違いなく、「アイドルであること」を問う事件だった。

震災とノコギリ事件に最も応接し得たのが秋元康/AKB48であるというのが、ここでの仮説である。

まずは震災について。当時、多くのミュージシャンが「団結」「癒し」「励まし」といったありきたりな作品しか作れなかったなかで、極めて即物的である「風は吹いている」が震災への唯一の真摯な応答であったことは間違いないだろう。そして「風は吹いている」は極めて野蛮な作品であった。

秋元康の震災への応答は「風は吹いている」で終わらなかった。震災以後のアイドルについて考えるときに、より重要な「掌が語ること」がリリースされた。

言うまでもなく、この曲では「掌が語る」=「握手会」ということが表現されている。震災後に詩を流通させる野蛮さを回避するものとしての握手会、秋元康の嗅覚の凄さが見事に現れている。

秋元康は「掌が語ること」で震災に見事に応接した。

それでは「掌が語ること」=「握手会」を暴力的に拒否した「岩手ノコギリ事件」に秋元康はいかに応接したのか、あるいは応接できなかったのか。

そこに「希望的リフレイン」がリリースされた。(続く)

あいまい
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菊池亜美論


存在の中での美的生命の増幅と豊饒――それがアイドリングを長らくつとめてきた菊池亜美の圧倒的な特徴である。

 アイドリングに二期生が加入してから、菊池亜美は常にアイドリングの中に居続け、しかもその居続けるというのは、存在を存続させる、つまり持続の観念で捉えられる、一つの〈生きつづける花〉なのである。花とは枯れてしまうものだからこの観念は逆説的であるが、菊池亜美という花はまさに咲き続けることにおいて特有な、パラドックス的特異的花なのである。
  彼女はどんなときにもそこにいる――これも一つのヒューモア(ドゥルーズ)だ。菊池亜美がアイドリングであり、アイドリングが菊池亜美だったということ、つまり菊池亜美なしのアイドリングはついに卒業まで見られることがなかった。これは異常である。もちろん私たちは、菊池亜美が加入してから今日の卒業に至るまで、随所に彼女の成長、変化する点を見出すことが出来る。それでも、彼女は登場した時から、一つの確かな線を有しまた描き続けているのである――それが、存在の増幅と豊饒であり、その動因はおそらく美的生命力である。生命力とは、人間(human)が「本来」有するものである。本来的人間が生命力である。
  本来的人間は、他者に、仲間に、時として仲間以外に、ずっと語りかけ、そして語りかけられ、そのことによって「…と共に在る」という一つ上の位相の綜合を経た人間存在の姿を取りだたしてくれる。そのとき、彼/彼女の有する生命力は、一つ上の段階にあがり、それは美的生命力へと生成するであろう。美的生命力、それは自らが溌剌としながら、かつ他者をもそれに巻き込み、そのことで自分もまた巻き込まれ、その半―永遠的につづく巻き込み―巻き込まれの運動のなかで、人間たち或いは存在という「本質」をより強める(enhanse)ものなのである。

  そして、菊池亜美とは、美的生命力をもつアイドルのことだったのである――今も、そしてこれからも。  彼女の卒業に、この言葉を贈る。   2014.11.23

みすてぃ