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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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無題

「掌が語ること」っていう作品ありましたっけ?(笑)

aimaiさんの記事を読んで思いました。 9.11、3.11 が起こった以降に、たくさんの知識人やアーティストがリアクトしました。僕はその時、大抵は冷静な分析を獲得している知識人の発言や論考に、耳を傾けていました。アーティストは、「語りえないものを敢えてどこかで語る」という矛盾につきまとわれて、余計なプレッシャーを感じていた人が多いように思えました。なぜなら、社会にストレートに発言するミュージシャンなど、もう現在の日本では数えるくらいしか居ないからです。
 Mr.Childrenなどはむしろ、語るのをやめて、リリース面では沈黙し、代りに寄付やライヴやネット配信といった実際面でのリアクトをしました。そういうのも正しかったと思います。

 過剰な語り、といったものをもしかしたら問題提起できるのかも、なんて。

震災からノコギリ事件へ(前編)

哲学者アドルノはナチスによる虐殺以後の文化を論じるなかで、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」と言った。

その言葉に倣い、「震災以後、アイドルであることは野蛮である。」「岩手ノコギリ事件以後、アイドルであることは残酷である。」と言えるのではないか。震災、ノコギリ事件は共に間違いなく、「アイドルであること」を問う事件だった。

震災とノコギリ事件に最も応接し得たのが秋元康/AKB48であるというのが、ここでの仮説である。

まずは震災について。当時、多くのミュージシャンが「団結」「癒し」「励まし」といったありきたりな作品しか作れなかったなかで、極めて即物的である「風は吹いている」が震災への唯一の真摯な応答であったことは間違いないだろう。そして「風は吹いている」は極めて野蛮な作品であった。

秋元康の震災への応答は「風は吹いている」で終わらなかった。震災以後のアイドルについて考えるときに、より重要な「掌が語ること」がリリースされた。

言うまでもなく、この曲では「掌が語る」=「握手会」ということが表現されている。震災後に詩を流通させる野蛮さを回避するものとしての握手会、秋元康の嗅覚の凄さが見事に現れている。

秋元康は「掌が語ること」で震災に見事に応接した。

それでは「掌が語ること」=「握手会」を暴力的に拒否した「岩手ノコギリ事件」に秋元康はいかに応接したのか、あるいは応接できなかったのか。

そこに「希望的リフレイン」がリリースされた。(続く)

あいまい
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無題

「掌が語ること」っていう作品ありましたっけ?(笑)

aimaiさんの記事を読んで思いました。 9.11、3.11 が起こった以降に、たくさんの知識人やアーティストがリアクトしました。僕はその時、大抵は冷静な分析を獲得している知識人の発言や論考に、耳を傾けていました。アーティストは、「語りえないものを敢えてどこかで語る」という矛盾につきまとわれて、余計なプレッシャーを感じていた人が多いように思えました。なぜなら、社会にストレートに発言するミュージシャンなど、もう現在の日本では数えるくらいしか居ないからです。
 Mr.Childrenなどはむしろ、語るのをやめて、リリース面では沈黙し、代りに寄付やライヴやネット配信といった実際面でのリアクトをしました。そういうのも正しかったと思います。

 過剰な語り、といったものをもしかしたら問題提起できるのかも、なんて。