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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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性は生政治である

性は生政治である


 


 堀江有里の『レズビアン・アイデンティティーズ』(2015、洛北出版)を読んでいると、「個人的な事柄は政治的なことがらである」というフェミニズムの第一スローガンを想起せずにはいられない。個人的な事柄と政治的な事柄、あるいは性と政治の関係を語り、暴いていくのがフェミニズムであり、ジェンダー学であり、クィア理論である。そしてそこには堀江がタイトルとして選んだレズビアン・「アイデンティティ」、自己に関する同一性、すなわち主体の問題が切って切り離せない。性・主体・政治はここにおいて同一の広大な平面に連なるのである。


 


 あるいは、フーコーの後期理論を吟味したラディカル・フェミニストのジュディス・バトラーの議論を思い出してもよい。彼女の最も重要な書物は『自己自身を説明すること』である。英語のタイトルではGiving an account of myself. とある。自己を表明するときに、性的自認・認識はしばしば切り離せない事柄であり、そしてそれは深く私たちの「生」を規定している。そのとき、この性・主体そしてそれらの動態を連ねる平面の名は、〈生政治〉であることが分かるだろう。〈性の政治〉は、とりもなおさず「生政治」なのである。


 


 ミシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランス講義録の第八巻において、『生政治の誕生』という風に一連の講義に名前をつけた。その問題意識は、一昨年の『社会は防衛しなければならない』、そして一昨年の『安全・領土・人口』から続いている。そして『安全・領土・人口』において、フランスの農作物の政策に関して、ケネーをはじめとする理論家を登場させつつ、「人口 population としての人民」という概念が登場したことをフーコーは明らかにする。つまり、名前を持たぬ「数」としての人民が、農作物の政策を論じるにあたり、議論の俎上に乗りはじめたというわけだ。この名前を欠いた「人口」は、翌年拡大されることになる〈生政治〉という考えの最も重要な鍵概念であった。そしてこの人口と、圧倒的に抽象的で、私たち個々人の具体的な生を粗くする「性」という概念には、共通点がある。


 


 「性」は、近代以降は、圧倒的にマス・メディアとの関係でその舞台を演じることになる。「広告」や映画、ポスター、小説、文学作品などはその典型である。性はメディア表象との関連なしに語ることはできない。というより、「性」は、性への「認識」の在り様なのである。反対にいえば、性は実在するのかもしれないが、その実在性がどうでも良いと思えるような時代も確かにあったのである。しかし、メディアが登場して以降、特に恋愛というイデオロギーを通じて、性別は意識され、自ら意識するような対象になった。その対象は私たちでもある。そして、家父長制に見られるような男―女の性別二元論は、明らかに時代的なものでしかないのである。


 


 「性」は私たちにもっとも身近なものであり、またもっとも遠いものでもある。もっとも身近なのは、「性」は私たちの身体に関することだからでもあり、もっとも遠いのは、それが認識作用であることからきている。ミシェル・フーコーは最後の書物『性の歴史』シリーズを、イギリス王朝の性生活の記述から始めたが、ジュディス・バトラーやジョルジョ・アガンベンを通して、また戻ってくるべきところも、性の政治、すなわち〈生政治〉の探究なのである。


 



みすてぃ

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