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接続と切断のあいだを考える


以下は、千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』の「序――切断論」の箇所を精読して書かれたエッセイである。


 接続と切断のあいだを考える――千葉雅也「序―切断論」『動きすぎてはいけない』 みすてぃ


 


 千葉雅也『動きすぎてはいけない』の序論にあたる「序――切断論」は、同書の十分すぎる入口として設定されている。序論で既にあまりに多くのことが語られるのだが、読者はそれを浅田彰的な「スマートな」態度でもってして読まざるをえない(序論でつっかかっては中々全体を通読できそうもないから)。しかしその点は置くとして、本稿ではこの論文で提示される「非意味的切断」と命名された概念を、千葉氏の議論からは逸脱して考えてみる。


 ちなみに、この「非意味的切断」の重要性を論じることこそがこの「切断論」の要であり、同時に本書を読み進める大きな鍵ともなっている。「非意味的切断」とは言うが、要するにもっとあっさり言っても、「理由・根拠なくしての切断/シャット・アウト」である。そして、千葉氏は、この理由なくしての(唐突な・無根拠な)切断こそが、重要な哲学的概念になりうると主張している。それはどのような文脈においてだろうか。


 とりもなおさずそれはドゥルーズ+ガタリが「リゾーム」という概念で提示したような、「接続過剰になってしまう」「誤った」リゾーム理解の側面を現わしている。リゾームとは地下茎のことで、この地下茎が何でもかんでも結びつけたり、逆に分離=離散させたりするといった感じのことである。ドゥルーズ+ガタリの「リゾーム」の概念は現代社会を生きる私たちにとって何となく分かりやすい。要するに、なんでもかんでもあらゆることが結びついてしまえるような、そんな危険なカオス状態をイメージすればよい。昨日食べた晩御飯と、今日の睡眠時間と、明日の残業時間への不安と、子どものテレビゲームのやりすぎ問題と、夫の無言が多すぎる問題と、浜崎あゆみの曲とが、頭の中、身体の中でごっちゃになっていて、そのごっちゃになったままを生きていくのが現代の生活……これだけでも何となくイメージは掴めてもらえるだろうか。千葉氏の「序――切断論」を読んだとき、実は僕は自分個人の生活レベルで、とてもほっとしたのである。というのは、そのような、何でもごっちゃにしがちな思考と、だらしのない身体に対して、千葉さんは、「シャット・アウトが大事だ! もっと風通しをよくしろ!」と言っているように聞こえたのである――実際、この「非意味的切断」の概念の「おかげで」、僕は非常に救われた。


 話が逸脱してしまったが、こういう風に、主体のレベルにおいても、それから複雑な構成を成している社会構造の中身においても、「絶えず接続しあってしまう」ような「過剰接続状態」は、ドゥルーズ+ガタリのいうリゾームの適切な理解ではないとし、彼らは接続と同時にちゃんと切断も語っていたではないか、と千葉氏は補足する。そして、むしろこの「接続と切断」のうちの「切断」へと一気にアクセルをかけることによって、千葉氏の「切断論」はドゥルーズ哲学から一歩踏み出した独自の哲学観念足り得ていると僕は思う。


 


 さて、この理由なし・の「非意味的切断」だが、切断に意味が伴っていないケースが想定されるなら、接続にもそうあってしかるべきではなかろうか? すなわち、非意味的接続……。むしろ僕は、この「関係を構成する原理」の接続と切断を、「非意味的」接続と切断と議論の重点をすり替えてしまえることを考えたい。万物の関係は、理由なしに・無根拠に、接続されたり、切断されたりする、ということ――。


 このラディカルにも取れる発想は、2016年の今、カンタン・メイヤスーの『有限性のあとで』が日本で敢行された今、別段新しくもないだろう。といって僕はまだこの『有限性のあとで』の邦訳に目を通していないのだが、メイヤスーの論文や日本の哲学者たちの対談のレベルで窺い知れる情報からすると、先ほどの議論はメイヤスーの哲学とも通じるところがあると思う。しかしその細かいところは、本を読んでみないと僕にはまだ何も言えない。


 ある物の構成が、理由もなく突然成立したり、かと思えば分解したり、という状況は、正直非常に迷惑ではある。ヒュームの分離=解離主義(『動きすぎてはいけない』第二章「関係の外在性――ドゥルーズのヒューム主義」参照)の極端なバージョンのようでもある。さすがに世界はこれでは安定しないから、何かそこに安定=事物を和解させるためのシステムが差し込まれる/差し込む……といったようにも妄想できてしまう。


 ここで大事なのは、この思考実験によって分かることは、「別段、事物の関係原理の発生を、根拠・理由なしにしても、そこまで(理論的に)問題がない」ということである。先ほど述べたように、事物の構成が本性上――この言葉を使うのには慎重を要するが――不安定なものだとして、それを何らかの形で調停=和解させてしまう安定システムの原理を考えればよい。それは例えばドゥルーズの「反復」や「ハビトゥス」といった説明で既に成されているような気がするのだ。


 したがって本エッセイでは、「非意味的」接続「と」切断、という概念も、さしあたって大きな問題はなく考えられると思う。千葉氏は同書で「シャープさ」等といった形容を駆使して、自身の切断論に深みを加えていたので、この「非意味的接続/切断」も何らかの形で内容を豊かにしなければならないのだが、とりあえずこのあたりで筆を置くことにしよう。

misty(了)

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