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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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久しく記事を書いていなかった


 このブログは「アイドルと哲学と」と銘うっている。「と」とは接続詞の「と」、and,etのとだ。

自分が、アイドルで評論を書くのなら、「アイドル哲学序説」となんのひねりもないタイトルで書き始めると思う。構想は次のような感じだ。

 アイドルの現場=〈他なるもの〉としてのメンバーの主体化の手続きにファンが参入すること

と定義する。 ここでキーワード、及び概念が5つある。

①現場   現場とは何か? 社会学的説明

②アイドル  どのようなアイドルを論の対象にしているか 記述の動機

③〈他なるもの〉とは  レヴィナスの倫理学

④主体化  ジュディス・バトラーの主体論(及びスラヴォイ・ジジェクのそれ)

⑤手続き、手続きへの参入とは 立体的イメージ


 こういった整理を自分でもする中で、宇野常寛=濱野さんがAKB的アイドルを、欲望のシステムと捉えたり、AKBまとめんばーに象徴されるような自己生成的キャラクターの成り立ち、といった聊か定番すぎる説明に対して、批判を加えなければならないかもしれないことに気がついた。

 乃木坂などを見ていても顕著に分かるが、アイドルという現場は、常に「大人たち」の権力との衝突の場でもある。運営、というやつがそれだ。運営の急な発表、運営による金の巻き上げ、そういったものにファンはいつでも抗議し、涙を流すことさえしてきた。

 そのなかで、大人たちが意図的にせよ無意識にせよメンバーを窮地においやることで、逆説的に様々なドラマが生まれて、「新しい主体、新しいキャラクターを超えた主体」が幾つも誕生したのはアイドルファンみなが知っていることだ。重要なのは、それが如何に人間の在り方を考えていくうえで必要不可欠な事件であるか、ということである。

 話が少し逸れるが、「制服のマネキン」の、妙に自分たちをダブらせた反抗的な歌をうたっている頃は、乃木坂メンバーは社会や大人たちといったものに対して何か闘う姿勢を見せる、=反抗するのか、とでも思ったくらいだ。しかし、既存権力にただの素足で立ち向かうことは、更なる暴力の連鎖(ホッブズ)に行きつくしかない。

 アイドルファンは、常に自己を反省すべき存在だと、僕は思う。「なぜ、この娘に惹かれるのか?」 「なぜ、あんなにもアイドルは輝かしいのか?」 「そしてなぜ、僕はアイドルにこんなにも惹かれるのだろうか」、と。そのとき、アイドル哲学は小さな産声をあげるのだ。

misty
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