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書評:松本卓也『人はみな妄想する』

☆松本卓也『人はみな妄想する』 青土社、2015


 


まず、日本にいる一般の思想読者に与えられている状況として、ラカンの著作ならびにその難解すぎる理論といわれるものの理解については、非常に苦しいものがあった。というか、まず僕がラカンのどうしようもない苦手意識を持っていた。ラカン理論は、ドゥルーズは『意味の論理学』以降、その批判や若しくは展開として恐ろしいほどに記述している。なのにもうとにかくよく分からない。デリダもそう。最近でいうと、スラヴォイ・ジジェクなんかもそうだ。しかしみな一様に、それぞれのラカン像ないしラカン理論を独自に展開していて、もはや原典どころではない。ラカン自身の著作は『エクリ』(日本語訳では全三巻)が唯一刊行されているのみで、しかもその日本語訳も評判が悪いらしい。もっとも重要な彼の講義録・セミネール本は、巻数がぽつぽつと日本語訳されてあるのが見つかるのみ……。こんな状況で、ラカンの理解については、難解で知られるドゥルーズやデリダよりも、日本では特に遅れていたように思われる。

 それが、2015年の5月に出されたこの本で、状況は一変した。なんとラカンの膨大な理論変遷(そのライフワークはほぼ五、六十年に渡る)を一つの明晰な視点のもとからずらっと体系的に説明しきった、説明することに成功した日本の若い学者が現れたのだ。彼の名前は松本卓也。以前からずっと論文をばんばん雑誌や学会報告に出していて、単行本が長らく待ち望まれていた。僕はこのことを非常に嬉しく思う。というかラカンが本当にレヴェルの高い水準で理解できて、どれだけ感謝をしていいか分からない。

 本書では、「神経症と精神病の鑑別診断」という視点のもとから、ラカンの理論の変遷を(一九)五十年代のラカン・六十年代のラカン・七十年代のラカンの三つのテーブルを主軸として、その前段階としてまさかフロイト理論の概略(本書はフロイトについても明晰な概説を与えてくれる!)や、ラカンのデビュー論文における問題意識、そしてラカンの死別後のポスト・ラカン的言説の検討(ドゥルーズ=ガタリとデリダ)も入った、もうこれ以上のボリュームはないというほどの完全な構成を提示する。ラカンマニアとしての松本卓也の偉業としか言いようがない。

 最後に「鑑別診断」という言葉について説明しよう。松本の説明の通り、ラカンは、臨床の場にやってくる患者が、神経症的特徴を持つのか(この言い方は厳密には正しくない)精神病的特徴を持つのかで、臨床の方法を変えるということを非常に重要視していた。なぜならもし、精神病の特徴を持つ患者に神経症を想定した治療を施したりすると、かえって治療が危険な場合に至ることが往々あるからである。そのための二つの疾患的特徴を判別するための面接を「予備面接」というのだが、その予備面接=前提としての鑑別診断として、神経症と精神病を理論上ではどれほど区別していくのか、その振れ幅が各年代のラカン理論によって変わっていく、というのが本書の全体の結論の一つである。


 思想を愛する者にとって、必読書がまた一つ増えた。(みすてぃ)


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