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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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PIPは詩人を追放したのか

アイドルグループPIP(Platonics Idol Platform)は2014年6月のお披露目から7カ月が経過し、オリジナル曲も4曲発表された。周知の通り、PIPのプロデューサーは批評家の濱野智史であり、全ての曲の作詩を担当している。「アイドルをつくるアイドル」というメタアイドル的な特異なコンセプトで発足したPIPであるが、山下緑という注目すべきメンバーが所属すること以外、一見普通のアイドルグループと変わりがない様に見える。

本当にそうなのか。ここではPIPの歌詞を分析してみたい。その歌詞の特徴を一言で言えば、そこでは印象的な比喩が排除されているということである。

アイドルに限らず、印象的な歌詞には印象的な比喩が不可欠である。AKB48『桜の花びらたち』では「桜」が絶妙な隠喩となり、NMB48『絶滅黒髪少女』では「黒髪」がグループの方向性を示すような換喩となっている。両曲とも印象的な比喩が名曲を生み出している。

PIPのグループ名に含まれる《Platonic》という言葉は哲学者プラトンの思想である「プラトン主義」を意味する。プラトンは「詩人追放論」を唱えたことで知られる。プラトンは理想国家=Platformから詩人を追放すべきであると考えていた。

哲学者プラトンの名前を持ち、批評家をプロデューサーとするアイドルグループであるPIPは、詩人が得意とする印象的な比喩を徹底的に排除しているように見える。もちろん多くの哲学者が指摘するように、言葉にとって比喩は本源的であり、PIPの歌詞が言葉でできている限り、その歌詞は常に比喩に蝕まれており、歌詞から比喩を読み取ることは可能てある。

例えば、『僕を信じて』には
僕の町からは ひとりふたりと
離れてゆく人が増えて
といった歌詞があり、グループからメンバーが卒業することを、町から人が離れることに喩えている。しかし、この歌詞で町から追放されたのはメンバーではなく、詩人なのではないか。

詩人を追放したアイドルグループの行方を、僕らは見守って行きたい。

aimai
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アイドル存在論――不可能な恋愛を恋愛すること

【前回記事】 ステージにあがってよい/よくない http://idolphilosophia.dou-jin.com/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%88%E3%81%84%EF%BC%8F%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84

 前回紹介した劇場型地元アイドルの「HR」は、ステージという環境設定、それが規定であれ不文律であれ、ともかくもステージがそこに「在る」というのを出発点にして、ステージの上にいるアイドル/そこに上がれないファン という視点を考察した。

ステージの上にいるアイドル、というのはもっと言うとどういうことなのか。

 AKB48の様々な力学関係の総体を私たちはもっと仔細に探求しなければならないが、たった一つの文言であれだけ多くの効果および事件、スキャンダルを巻き起こしたものはない。秋元康はスペクタクル社会におけるアイドル産業の活用の仕方についても聡明であったのだ。「恋愛禁止」である。

 この文言によって、アイドルメンバーとファンとの性的な繋がりは禁止される。
それどころか、性的なつながりに至る回路は全てシャット・アウトされ、その「具体的危険性」を誘発する「つながり行為」、すなわち昔であればメールアドレス・電話番号を「お互いが知り合ったこと」「アイドルが目にした事」(どちらがどのような状態で、というのは個々の(運営の)判断に任される)や、今ではLINEでの交換などが、そのアイドルのみならずファンにまでも影響を及ぼす。
 「繋がり」をもったメンバー若しくはそれに準ずる行為をしたメンバーは、勧告、謹慎、活動休止、解雇の対象となる。そして、ファンについても、運営からの勧告および場合によっては劇場などの特定の場所の出入り禁止策が下されたりする。


 さきほどはこの「恋愛禁止」のアイデアが秋元康による聡明なものであったと言ったが、筆者には性的なものをぐるぐる回るアイドルの力学関係が、この「恋愛禁止」という不文律によってどれほど多大な規定を及ぼしているのか、まさにそれは事物の本質的essencialなことのように思われてならない。

 もちろん、アイドルとファンがつながってしまえば、他のファンはそのアイドルを応援しにくくなるし、実際げんなりするし、応援するモチベーションも見当たらない。
 それでも例えば、80年代のおにゃん子クラブでは、わざわざ恋愛禁止といった文言をふりかざすAKB体制のようなものは見受けられず、例え個々のアイドルが裏でひっそりと情事をはぐくんでいたとしても、オモテでは可愛いねウラではそうなのね、のシラけつつノる、ノりつつシラけるの気分モードがあったはずだ。

 テン年代のアイドルはガチで「恋愛禁止」をやっている。だからガチでスキャンダルになる。

あたかも、「恋愛禁止」がはじめにあったかのように、だ。ここがポイントである。恋愛禁止はそもそものはじめからあったかのように作用するのである。
 もちろんそれに対する合理的根拠は幾つかある。しかし筆者にはそれは究極において根拠づけたりえていないと思う。恋愛禁止は、アイドルがあくまで産業として盛り上がるための毒薬にすぎない。
 そして薬には副作用がある。そう、恋愛禁止が幾多の年齢と地層化を経て歪曲してついに「起源としての恋愛禁止」(起源の発生――デリダ)になったとき、そこからはじまる「不可能な恋と絆」が、現代のアイドルの状況なのだ、と。

みすてぃ




白石麻衣論ーー活き活きとした人間



乃木坂46のエース白石麻衣を語るには、アイドルとしてスタートした彼女のキャリアを最低限の程度で辿る必要がある。

 乃木坂はメンバーがツイッターを開設しているわけでもなく、ブログもオフィシャルサイトに統合されていてはっきりいって読みづらいし、では現代アイドルを支えるメディアは乃木坂にとって何かというと当然テレビである。

 彼女のスタートから用意されていた『乃木坂ってどこ?』の最初を見れば、白石麻衣とはいかに「単なる美人」の特性があったのみであったか、が分かるだろう。そう、彼女は乃木坂のメンバーの中でも傑出して、この番組を通して自分の〈キャラ〉――この言葉には相当の注意を払わなければならない――を獲得したり、メンバーと共に歩んできた歴史の歩みの確かさを握りしめていった一人なのである。端的に「成長」と呼ぶにはあまりにドラスティック、ドラマティックなそれ。

 白石麻衣が初めて専属雑誌の『Ray』の表紙を飾った時、特集のインタビューで彼女は当時の心情を赤裸々に吐露した。超有名雑誌の表紙を異例の速さで飾るといったその時にあっても、彼女はアイドルをはじめたころと変わらず不安を抱え、悩み、結果が出なかったらどうしようとくよくよする。それはまるで「普通の女の子」のようである。しかし、彼女は負けたことがないのだ、不思議にも。あまりにも不思議である。それは、彼女がどれほどの不安や苦悩を抱えつつも、常に前進するという想いで様々な仕事にチャレンジしていった、その結果に他ならない。

 「単なる美人」、というか「ヘタレ」(彼女がプロ野球の始球式で二回も球をキャッチャーミットにつくまでに地にバウンドさせたことは各メディアでも大きく取り上げられた)というキャラも持っていた彼女が、強さを持っていた。でも、スイッチを切った彼女の様子は、どうやらとても気が抜けた分自由奔放で楽しそうである。

 乃木坂のメンバーには恐ろしい逸材ばかりがいてただただうちふるえる(苦笑)ばかりだが、この白石麻衣ほど活き活きとした人間も他に類を見ないだろう。彼女の奥底には計り知れないレギュレーターがあるのだ。白石麻衣は常にトップの地平で、美貌と、優しさと、闘争心と、底抜けの明るさを発揮してこの狂った現代社会を表象する。

 /みすてぃ

震災からノコギリ事件へ(後編)~希望的リフレイン~

岩手ノコギリ事件に対して、秋元康が何もコメントしなかったことに多くの批判が寄せられた。一方で、秋元康は事件後の最初の楽曲で事件に応答するのではないかという期待が寄せられた。

そのなかでリリースされた『心のプラカード』は、残念ながら期待に応えるような楽曲ではなかった。

そしてマスコミから事件についての報道が消えたころに『希望的リフレイン』がリリースされた。

『希望的リフレイン』で歌われる「終わらないリフレイン」、それはニーチェの「永劫回帰」やフロイトの「抑圧されたものの回帰」を持ち出すまでもなく悪夢的なものであるだろう。事件後の入山、川栄が「終わらないリフレイン」に苦しんだ(苦しんでいる)ことは想像に難くない。

「終わらないリフレイン」を「希望的リフレイン」に変えること。そのために、何度も同じ力強いフレーズを繰り返すこと。この曲はただそれだけのために存在する。

その結果として、神曲という形容がピッタリな『希望的リフレイン』が生まれた。

『希望的リフレイン』の印象的な振り付けについても触れておくべきだろう。多くの人の記憶に残るのは「手で何かを振り払い」、「何かから逃げるように走る」振りなのではないか。あたかも手でノコギリを振り払い、走って逃げ出すような振り。

『希望的リフレイン』は振り付けにも岩手の事件の傷が刻まれている。


あいまい

ステージにあがってよい/よくない


 私の論考は基本的にAKB以後を考えるものが多い。
AKBは、(現在でもそうだが)専用劇場を持つアイドルグループである。

 まぁそこからの乖離も目覚ましいわけだが…

とにかく劇場にはすべからくステージといったものが存在する。
 ステージには、通常、お客はあがってはいけない「神聖」な領域だとされるそうだ。
これは僕の実体験に基づく話でもある。
 お金を払っている立場でも守らなければならないのは、この神聖で不可侵のステージは、アイドルを志す者だけが上れる、ということだ。

 生身としてのアイドルを論ずるに十分な人はあまり数多くは無いし、そもそも難しいのだが、劇場型アイドルは、ステージにたつことで、ステージをお客さんの場所と分け隔てる事によって、本質的な空間が形成される。

そう、当たり前の事だが、ファンは同じ場所に立てないということ。どれだけ近くから見ようと、常に絶対的な距離がアイドルとの間に存在するということ。

この絶対的な距離に、アイドルという現象の謎はすべて含まれている。

やはり、ファンは信仰者に近いのかもしれない。 自論ではそうではないと言い切るのだが、今それを詳細に述べる事は出来ない。
 劇場型アイドルは、ステージの上にたつことによって、ひとつの絶対的な不可侵性を手に入れる。そのとき彼女たちは天使に近い存在となり、単なる見るー見られる、の関係から、光を放つ者、へなりゆく。

 その過程が面白くて、資本主義のシステムで回しているのが、現在の劇場型アイドルグループのなりたちである。


みすてぃ