【前回記事】 ステージにあがってよい/よくない http://idolphilosophia.dou-jin.com/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%88%E3%81%84%EF%BC%8F%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84
前回紹介した劇場型地元アイドルの「HR」は、ステージという環境設定、それが規定であれ不文律であれ、ともかくもステージがそこに「在る」というのを出発点にして、ステージの上にいるアイドル/そこに上がれないファン という視点を考察した。
ステージの上にいるアイドル、というのはもっと言うとどういうことなのか。
AKB48の様々な力学関係の総体を私たちはもっと仔細に探求しなければならないが、たった一つの文言であれだけ多くの効果および事件、スキャンダルを巻き起こしたものはない。秋元康はスペクタクル社会におけるアイドル産業の活用の仕方についても聡明であったのだ。「恋愛禁止」である。
この文言によって、アイドルメンバーとファンとの性的な繋がりは禁止される。
それどころか、性的なつながりに至る回路は全てシャット・アウトされ、その「具体的危険性」を誘発する「つながり行為」、すなわち昔であればメールアドレス・電話番号を「お互いが知り合ったこと」「アイドルが目にした事」(どちらがどのような状態で、というのは個々の(運営の)判断に任される)や、今ではLINEでの交換などが、そのアイドルのみならずファンにまでも影響を及ぼす。
「繋がり」をもったメンバー若しくはそれに準ずる行為をしたメンバーは、勧告、謹慎、活動休止、解雇の対象となる。そして、ファンについても、運営からの勧告および場合によっては劇場などの特定の場所の出入り禁止策が下されたりする。
さきほどはこの「恋愛禁止」のアイデアが秋元康による聡明なものであったと言ったが、筆者には性的なものをぐるぐる回るアイドルの力学関係が、この「恋愛禁止」という不文律によってどれほど多大な規定を及ぼしているのか、まさにそれは事物の本質的essencialなことのように思われてならない。
もちろん、アイドルとファンがつながってしまえば、他のファンはそのアイドルを応援しにくくなるし、実際げんなりするし、応援するモチベーションも見当たらない。
それでも例えば、80年代のおにゃん子クラブでは、わざわざ恋愛禁止といった文言をふりかざすAKB体制のようなものは見受けられず、例え個々のアイドルが裏でひっそりと情事をはぐくんでいたとしても、オモテでは可愛いねウラではそうなのね、のシラけつつノる、ノりつつシラけるの気分モードがあったはずだ。
テン年代のアイドルはガチで「恋愛禁止」をやっている。だからガチでスキャンダルになる。
あたかも、「恋愛禁止」がはじめにあったかのように、だ。ここがポイントである。恋愛禁止はそもそものはじめからあったかのように作用するのである。
もちろんそれに対する合理的根拠は幾つかある。しかし筆者にはそれは究極において根拠づけたりえていないと思う。恋愛禁止は、アイドルがあくまで産業として盛り上がるための毒薬にすぎない。
そして薬には副作用がある。そう、恋愛禁止が幾多の年齢と地層化を経て歪曲してついに「起源としての恋愛禁止」(起源の発生――デリダ)になったとき、そこからはじまる「不可能な恋と絆」が、現代のアイドルの状況なのだ、と。
みすてぃ
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