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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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「セーラーゾンビ」の哲学

AKB48の6枚目のアルバムのタイトルは、ヘーゲルとマルクスが引用したことで知られるフレーズ『ここがロドスだ、ここで跳べ!』というものであった。それは哲学好きに大きな期待を抱かせるタイトルであり、確かに哲学的に興味深い曲がいくつか収録されている。

もちろん表題曲の「ここがロドスだ、ここで跳べ!」も、タイトルに哲学という言葉を持つ「 清純フィロソフィー」も良い曲ではある。しかし最も哲学的な解釈を誘惑する曲は「セーラーゾンビ」である。

「セーラーゾンビ」が描く哲学を簡単に素描してみよう。

まず「ゾンビ」は「哲学的ゾンビ」という概念があるとおり、分析哲学が好んで取り上げてきた主題であることが知られている。意識について哲学的に思考するときに常に呼び出されるのがゾンビであった。生と死の境界、そして人間の同一性を脅かすものとしてのゾンビ。

そして、「セーラーゾンビ」の歌詞を読むと、一人の偉大な哲学者を想起せざるを得ない。それはヘーゲルでもマルクスでもなく、ハイデガーである。

「君の世界へ行ってみたいんだ 一度くらい死んでもいい」という素晴らしいフレーズは、ハイデガーの世界と繋がっている。そこにはハイデガーが本来的な生を得るために必要とした「死への先駆的覚悟」、世界内存在としての人間、そして世界における他者である共同存在。

さらにこの曲では死によって作られる「運命共同体」が描かれる。死に向かうことから共同体を論じたのもハイデガーだった。ハイデガーは「不気味なもの」について何度も論じたが、それはゾンビのことだったのではないか。

aimai
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補足:「平等ーー社会学的」


 「平等ーー社会学的」で書いたことは、柄谷行人の交換様式論にもかなり重複するものであると、後で気付いた。

柄谷いわく、原始共同体的な場所では(私の理解が間違っていなければいいが)、互酬性を駆動原理とするような交換(経済―倫理的な)が、社会経済の軸にあると言う。

 例えば、親子の間での、親から子への献身的な面倒見は、市場原理に基づく貨幣を介した経済活動とは似ても似つかない。 親は、ある意味でその場での見返り(return)など求めていないのである。

 ただしこれも、柄谷から言わせれば、広い意味での「交換」である、と言う。何か行為をされた者にとっては(この場合は子だが)、負債としての負い目を感じずにはいられないものであり、たとえば「将来、親孝行して恩返しをする」といった形で未来に投射するうえで交換を成り立たせるのである。

 この、互酬性の原理、いわば見返りを(ほとんど)求めず、一方から一方へ「与える」というのは、前回でみたアイドル=神学的な、絶対愛と近い。そのとき、真の平等が実現しているのである。ぎゃくにいえば、真の平等が実現するためには、このアイドル=神学的、見返りを求めない「与え」が必要条件だということだ。

 近代の人間は神をじしんの領域から追い出すことによって、先験的に自らがひれ伏すものを隠ぺいした。まぁ、それはそれで人が人の上に立つ、という事態を産んだのではあるが。

 アイドルという現場では、実にオタクは雑多な、多様性ある人間集団として活動する。知識人もいれば、生活保護をともにするような人もいる。ただしそこに上下関係はない。上下関係が在るのは、ある意味お金を投資=消費する先のアイドルとの間柄においてだけである。彼女たちにはひれ伏す――ここでのこの言葉はじつに多義的な意味合いを含んでいるーーことはあっても、オタクがオタクの上にたつようなことはあってはならない。

 とりとめのない記述になったが、補足は以上である。よって本記事も前回記事も、アイドルのことを扱っているが、優れて学的な記述であるうえにカテゴリを「哲学」とした。

misty

 

平等ーー社会学的

たとえばフランス国家の三大理念、自由、平等、友愛のうち、自由についてはもっぱら語られるほど語られるが、平等や友愛について自由ほど大真面目に語られたことはない。むしろ、ジョン・ロールズの『正義論』をはじめとする政治哲学の「正義」への注視や、公平などはテーマになるが、友愛、ことに平等は最近の議論の俎上にすらのせられない。


 平等の定番といえば、憲法の14条「法の下の平等」である。この、「法の下の」という言説こそ、多様であり得る人々をひとつのネーションにしばりあげ、実質的な差異をもたらす包摂的排除の作用制度に他ならない。

 実質的平等を確保するための結果の平等を……という文言はあるが、おそらくこれは平等を真剣に思考するためには何か下手くそなのである。国家ー政治学からはかけ離れた所で今一度「平等」を思考しなければならない。

 しかし、ヒントはある。つまり、平等という概念が主張されはじめるのは、どこか。国家が人民を縛り上げるときである。つまりこのとき、国家は人民に対して、機会を振り分ける(たとえば所得の分配など)機能をもっている。このとき、あたえられる/あたえられない という軸で、平等が語られているのだ。



 この、あたえられる/あたえられない の軸は、現代において、国家以外でどこで見つかるか。意外にたくさんの場面が見つかるのだが、例えば現代のアイドルの舞台においてどうなのだろうか。

 アイドルは、ファン(オタクと冷笑めいた名前を使うのは控える)に愛をばらまく。そう、これはまぎれもない真実である。 ファンはステージ観覧や物販代といってはお金を払い、その対価として何を得たいかというと、アイドルからのレスであったり、公演中のレス、私信、物販、サイン、認知、チェキ、手つなぎ、ウインク……等である。つまるところ、アイドルからの「愛」、応答replyとしての、愛である。

 アイドルにハマるファンからしてみれば、問題はこのアイドルからの愛の分配という問題こそが、最大で唯一の悩みどころである。 推しメンは、いつもあの人ばっかりにいい対応をする、自分には塩対応ばかり、寂しいから、他のアイドルに推し変する……。ファンがいつも臨機応変に振る舞えればそれはそれでいいのだが、おそらく問題はアイドルの側にもある。

 愛の振り分けが非常に下手くそなアイドルも現にいる。腐りきるほどいる。筆者は、それはアイドルの条件をなすものとして、おそらくもっともっと上にあがっていくために、愛の上手い振り分けをすることが必要条件になってくると考える。

 どうしてあいつばかり。どうして俺には。

様々な場面でこのファンの内心の、いや現の声を聞く。おそらく私たちは「真の平等」が何か理解していないし、そして「真の平等」は現れてもいないのだ。

 そんな「真の平等」の参考になるのが、筆者は篠田麻里子だと思う。

彼女は、自分がAKB48を卒業するにあたって、こう述べた。

「昔からずっと応援してくれたファンも、つい最近私の事を知ってくれて応援してくれるようになったファンも、私からしたら、みな同じとても大切な宝のような存在。みなさんに対して、ありがとうを今一度言いたいです。」

 貴方だけが特別でもない、かといって君が唯一なわけではない、どの存在も等しく高く輝いた存在―――。篠田麻里子の「愛」は、人々をそのような価値的存在にいたらしめるほどに、完成されている。そうした愛が存在するとき、真の平等が実現するのではないか。

 ここで大切なことは次の二つである。

(一) 完全な愛が存在するとき、その愛は全ての存在物を等しく最高の輝きたらしめる。

(二) 愛は一方から一方に対して与えられる――それも絶対的な仕方で。このとき、インタラクティヴ性といったものは微塵も存在していない。

 お金で愛は買えない。なぜなら真の愛は、双方向的なものではありえず、ただ真理に気付いた者だけが、その人が与える事の出来るものだからである。

話がますます宗教論めいて友愛の話にも近づいたところで、論を終わりたい。

みすてぃ

アイドルから哲学者へ~須藤凜々花~(前編)

AKB48グループから哲学者が生まれる。アイドルと哲学に惹き付けられている者にとって、こんなに興味を引かれることはない。

もちろん、りりぽんことNMB48チームNの須藤凜々花さんのことである。

まずはりりぽんの哲学についての発言をまとめてみよう。


「ソクラテス先輩が毒ニンジンを食べた事件について、小論文を書いたことがある。」


「“善く生きる”これがソクラテス先輩の信念か。かっけーっす。」

「SKE48えごゆうな先輩こと、ego is angel先輩」


「AKBグループは“イデア界”、天上にあるとされる、人間が理想とする世界。」

「今深めている考えは、フーコー先輩の“考古学”」

「好きな哲学者はフロイトかな。 エロスとはタナトス(死への衝動)の反対である、 ってことを定義してくれたからね。( ^ω^ )」

「好きな言葉は“神は死んだ”ですね。何十年経っても色褪せないインパクト。 こんなスマートかつ力のある言葉を残せる人に なりたい。 “神はいない”じゃなくて、 “神は死んだ”ってところに 言葉選びのセンスを感じますね。」(続く)

aimai