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アイドルから遠く離れて

アイドルと哲学。

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乃木坂46は回転し、SKE48はジャンプする

乃木坂46はデビューから円弧・回転運動に憑かれたグループであった。坂から転がり落ちるボールが回転するように。まずは乃木坂46の歌詞の運動性を素描してみよう。

デビュー曲の『ぐるぐるカーテン』ではカーテンを巻き付ける〈回転運動〉で作り出す、「仲のいい友達と 2人きりの世界」が描かれた。衣装のフワッとしたワンピースが回転するときの柔らかさが、清新な印象を与えた。

『おいでシャンプー』の歌詞で最も鮮烈な印象を残すのは、ホースから出る水によって「霧のその中に 虹を見せる」シーンであり、虹が描く〈円弧〉の美しさである。
そしてシャンプーの香りが届くのは、君が「振り向いた時=身体を〈回転〉させた時」であった。

その後のシングル曲についても、詳細な説明は不要だろう。『走れ!Bicycle』ではペダルを回し、『制服のマネキン』では「河川敷の野球場で」「僕らの所へ飛んでくればいい」と歌われたボールは放物線を描いただろうし、『君の名は希望』では「転がってきたボール」が君との重要なシーンを生み出した。

『ガールズルール』では「バスタオルを巻き付け」、『バレッタ』では「振り向いて 両手で髪を留め」るといった回転する所作が歌詞に描かれた。カップリングの『扇風機』については説明不要だろう。

ところが『気づいたら片想い』以降、乃木坂46の運動性に大きな変化が訪れる。『気づいたら片想い』では運動が完全に失われてしまったのである。

『夏のFree & Easy』からは、より大きな変化が訪れる。「打ち上げ花火のように」という垂直運動が導入されたのである。そして『何度目の青空か』では「誰かが閉め忘れた蛇口」から流れ落ちる水の垂直運動が強烈な印象を残すことになる。

なぜ『気づいたら片想い』以降、乃木坂46の運動性が変化してしまったのだろう。センターが「静」の印象が強い西野七瀬になったからだろうか。乃木坂46の歌詞の世界を変化させた事件とは、SKE48との兼任メンバーである松井玲奈の参加ではないだろうか。

考えてみれば、SKE48ほど垂直運動に憑かれたグループがかつてあっただろうか。タイトルだけみてみても、『バンザイVenus』『美しい稲妻』のように〈バンザイ〉〈稲妻〉という垂直運動を伴う単語が使われている。

最近のシングルにおいても、『賛成カワイイ! 』では「Jump! Jump! 」の歌詞とともにジャンプし、『未来とは?』では時間が「次の一粒が 落ちた」という砂時計の砂の垂直運動で表現されている。

『不器用太陽』では「ワンピースの花が 風に舞い上がって」という美しいシーンが垂直運動によって描かれている。

回転運動から垂直運動へ。乃木坂46は48グループとの兼任という事件を運動性の変化として受け止めた。


(※)一方で水平運動に憑かれたAKB48は、生駒里奈が参加した楽曲である『心のプラカード』で、回転するプラカードを導入することになる。

(※※)昨年の乃木坂46真夏の全国ツアーのovertureは、ブンブン〈サテライツ〉の楽曲であった。

aimai
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PIPは詩人を追放したのか

アイドルグループPIP(Platonics Idol Platform)は2014年6月のお披露目から7カ月が経過し、オリジナル曲も4曲発表された。周知の通り、PIPのプロデューサーは批評家の濱野智史であり、全ての曲の作詩を担当している。「アイドルをつくるアイドル」というメタアイドル的な特異なコンセプトで発足したPIPであるが、山下緑という注目すべきメンバーが所属すること以外、一見普通のアイドルグループと変わりがない様に見える。

本当にそうなのか。ここではPIPの歌詞を分析してみたい。その歌詞の特徴を一言で言えば、そこでは印象的な比喩が排除されているということである。

アイドルに限らず、印象的な歌詞には印象的な比喩が不可欠である。AKB48『桜の花びらたち』では「桜」が絶妙な隠喩となり、NMB48『絶滅黒髪少女』では「黒髪」がグループの方向性を示すような換喩となっている。両曲とも印象的な比喩が名曲を生み出している。

PIPのグループ名に含まれる《Platonic》という言葉は哲学者プラトンの思想である「プラトン主義」を意味する。プラトンは「詩人追放論」を唱えたことで知られる。プラトンは理想国家=Platformから詩人を追放すべきであると考えていた。

哲学者プラトンの名前を持ち、批評家をプロデューサーとするアイドルグループであるPIPは、詩人が得意とする印象的な比喩を徹底的に排除しているように見える。もちろん多くの哲学者が指摘するように、言葉にとって比喩は本源的であり、PIPの歌詞が言葉でできている限り、その歌詞は常に比喩に蝕まれており、歌詞から比喩を読み取ることは可能てある。

例えば、『僕を信じて』には
僕の町からは ひとりふたりと
離れてゆく人が増えて
といった歌詞があり、グループからメンバーが卒業することを、町から人が離れることに喩えている。しかし、この歌詞で町から追放されたのはメンバーではなく、詩人なのではないか。

詩人を追放したアイドルグループの行方を、僕らは見守って行きたい。

aimai

「セーラーゾンビ」の哲学

AKB48の6枚目のアルバムのタイトルは、ヘーゲルとマルクスが引用したことで知られるフレーズ『ここがロドスだ、ここで跳べ!』というものであった。それは哲学好きに大きな期待を抱かせるタイトルであり、確かに哲学的に興味深い曲がいくつか収録されている。

もちろん表題曲の「ここがロドスだ、ここで跳べ!」も、タイトルに哲学という言葉を持つ「 清純フィロソフィー」も良い曲ではある。しかし最も哲学的な解釈を誘惑する曲は「セーラーゾンビ」である。

「セーラーゾンビ」が描く哲学を簡単に素描してみよう。

まず「ゾンビ」は「哲学的ゾンビ」という概念があるとおり、分析哲学が好んで取り上げてきた主題であることが知られている。意識について哲学的に思考するときに常に呼び出されるのがゾンビであった。生と死の境界、そして人間の同一性を脅かすものとしてのゾンビ。

そして、「セーラーゾンビ」の歌詞を読むと、一人の偉大な哲学者を想起せざるを得ない。それはヘーゲルでもマルクスでもなく、ハイデガーである。

「君の世界へ行ってみたいんだ 一度くらい死んでもいい」という素晴らしいフレーズは、ハイデガーの世界と繋がっている。そこにはハイデガーが本来的な生を得るために必要とした「死への先駆的覚悟」、世界内存在としての人間、そして世界における他者である共同存在。

さらにこの曲では死によって作られる「運命共同体」が描かれる。死に向かうことから共同体を論じたのもハイデガーだった。ハイデガーは「不気味なもの」について何度も論じたが、それはゾンビのことだったのではないか。

aimai

補足:「平等ーー社会学的」


 「平等ーー社会学的」で書いたことは、柄谷行人の交換様式論にもかなり重複するものであると、後で気付いた。

柄谷いわく、原始共同体的な場所では(私の理解が間違っていなければいいが)、互酬性を駆動原理とするような交換(経済―倫理的な)が、社会経済の軸にあると言う。

 例えば、親子の間での、親から子への献身的な面倒見は、市場原理に基づく貨幣を介した経済活動とは似ても似つかない。 親は、ある意味でその場での見返り(return)など求めていないのである。

 ただしこれも、柄谷から言わせれば、広い意味での「交換」である、と言う。何か行為をされた者にとっては(この場合は子だが)、負債としての負い目を感じずにはいられないものであり、たとえば「将来、親孝行して恩返しをする」といった形で未来に投射するうえで交換を成り立たせるのである。

 この、互酬性の原理、いわば見返りを(ほとんど)求めず、一方から一方へ「与える」というのは、前回でみたアイドル=神学的な、絶対愛と近い。そのとき、真の平等が実現しているのである。ぎゃくにいえば、真の平等が実現するためには、このアイドル=神学的、見返りを求めない「与え」が必要条件だということだ。

 近代の人間は神をじしんの領域から追い出すことによって、先験的に自らがひれ伏すものを隠ぺいした。まぁ、それはそれで人が人の上に立つ、という事態を産んだのではあるが。

 アイドルという現場では、実にオタクは雑多な、多様性ある人間集団として活動する。知識人もいれば、生活保護をともにするような人もいる。ただしそこに上下関係はない。上下関係が在るのは、ある意味お金を投資=消費する先のアイドルとの間柄においてだけである。彼女たちにはひれ伏す――ここでのこの言葉はじつに多義的な意味合いを含んでいるーーことはあっても、オタクがオタクの上にたつようなことはあってはならない。

 とりとめのない記述になったが、補足は以上である。よって本記事も前回記事も、アイドルのことを扱っているが、優れて学的な記述であるうえにカテゴリを「哲学」とした。

misty

 

平等ーー社会学的

たとえばフランス国家の三大理念、自由、平等、友愛のうち、自由についてはもっぱら語られるほど語られるが、平等や友愛について自由ほど大真面目に語られたことはない。むしろ、ジョン・ロールズの『正義論』をはじめとする政治哲学の「正義」への注視や、公平などはテーマになるが、友愛、ことに平等は最近の議論の俎上にすらのせられない。


 平等の定番といえば、憲法の14条「法の下の平等」である。この、「法の下の」という言説こそ、多様であり得る人々をひとつのネーションにしばりあげ、実質的な差異をもたらす包摂的排除の作用制度に他ならない。

 実質的平等を確保するための結果の平等を……という文言はあるが、おそらくこれは平等を真剣に思考するためには何か下手くそなのである。国家ー政治学からはかけ離れた所で今一度「平等」を思考しなければならない。

 しかし、ヒントはある。つまり、平等という概念が主張されはじめるのは、どこか。国家が人民を縛り上げるときである。つまりこのとき、国家は人民に対して、機会を振り分ける(たとえば所得の分配など)機能をもっている。このとき、あたえられる/あたえられない という軸で、平等が語られているのだ。



 この、あたえられる/あたえられない の軸は、現代において、国家以外でどこで見つかるか。意外にたくさんの場面が見つかるのだが、例えば現代のアイドルの舞台においてどうなのだろうか。

 アイドルは、ファン(オタクと冷笑めいた名前を使うのは控える)に愛をばらまく。そう、これはまぎれもない真実である。 ファンはステージ観覧や物販代といってはお金を払い、その対価として何を得たいかというと、アイドルからのレスであったり、公演中のレス、私信、物販、サイン、認知、チェキ、手つなぎ、ウインク……等である。つまるところ、アイドルからの「愛」、応答replyとしての、愛である。

 アイドルにハマるファンからしてみれば、問題はこのアイドルからの愛の分配という問題こそが、最大で唯一の悩みどころである。 推しメンは、いつもあの人ばっかりにいい対応をする、自分には塩対応ばかり、寂しいから、他のアイドルに推し変する……。ファンがいつも臨機応変に振る舞えればそれはそれでいいのだが、おそらく問題はアイドルの側にもある。

 愛の振り分けが非常に下手くそなアイドルも現にいる。腐りきるほどいる。筆者は、それはアイドルの条件をなすものとして、おそらくもっともっと上にあがっていくために、愛の上手い振り分けをすることが必要条件になってくると考える。

 どうしてあいつばかり。どうして俺には。

様々な場面でこのファンの内心の、いや現の声を聞く。おそらく私たちは「真の平等」が何か理解していないし、そして「真の平等」は現れてもいないのだ。

 そんな「真の平等」の参考になるのが、筆者は篠田麻里子だと思う。

彼女は、自分がAKB48を卒業するにあたって、こう述べた。

「昔からずっと応援してくれたファンも、つい最近私の事を知ってくれて応援してくれるようになったファンも、私からしたら、みな同じとても大切な宝のような存在。みなさんに対して、ありがとうを今一度言いたいです。」

 貴方だけが特別でもない、かといって君が唯一なわけではない、どの存在も等しく高く輝いた存在―――。篠田麻里子の「愛」は、人々をそのような価値的存在にいたらしめるほどに、完成されている。そうした愛が存在するとき、真の平等が実現するのではないか。

 ここで大切なことは次の二つである。

(一) 完全な愛が存在するとき、その愛は全ての存在物を等しく最高の輝きたらしめる。

(二) 愛は一方から一方に対して与えられる――それも絶対的な仕方で。このとき、インタラクティヴ性といったものは微塵も存在していない。

 お金で愛は買えない。なぜなら真の愛は、双方向的なものではありえず、ただ真理に気付いた者だけが、その人が与える事の出来るものだからである。

話がますます宗教論めいて友愛の話にも近づいたところで、論を終わりたい。

みすてぃ